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Project Eden

1.愛の思いを伝える

先程ありましたが、神というものを、それを別に何と言ったらよいか。それは別に言うならば、愛というものを別に何て呼んだらよいか、それと同じ問いかけであります。

今、新たなこの時代の中で、神理が究極的に明かされるこの時代の中において、神とは愛であり、愛の法則であり、愛のエネルギーそのものであるということをアモール様より教えていただきました。

愛というものが我々を生かしむる宇宙の根源的なエネルギーであり、我らが「神よ」と崇めるその方、その存在そのものであります。その答えにたどり着くまで、人類は長き長き時を必要とし、数々の問いかけの中で、いちばんシンプルで簡単な答えであったのにもかかわらず、たどり着けずに、難解な、難解な知の遊戯の中で人びとは苦しんできたのです。

それを学問と言い、それを哲学と呼び、さも知恵者の集団がもっともすべてを見通したかのような神の叡智にも近づいたかのような言葉でもてあそぶ知の遊戯の中で神というものを問いかけ続けた。それが人類の歴史であったのかもしれません。でも答えは意外なところにあるのです。

それは、インマヌエル、イエス・キリストが説かれた愛というものの普遍性、そして神と呼ぶ、我が父と呼ぶお方に対する幼子が慕い行くような、すり寄るような、そのような思い、その中にすべての真実は隠されているのです。難しい言葉であなた方が問いかけることよりも、あなた方が神の子であるということを明かされた、神の子であるということを明かされたということは、宇宙の根源的なる大いなる愛の神の光を引くその子どもたちであるということ。その答えはあなた方の胸の中にしまわれている無尽蔵にある愛というものの、愛の泉を掘り当てた時に、本来の叡智というものが湧き上がってくるということです。

神の子としての神性というものは脳みその中に、頭蓋骨の中にはないのです。愛というもの、ハートの中にある魂の中にある愛というものを証していく。その裏付けとして知性というものが使われてこそ知性は意味があるのです。でも本来いちばん大切なのは、我々が神の子であるという、愛というものをぎっしりと詰め込んだ、このハートの中に、魂の中に、普遍的な叡智というもの、神理というものが、もうすでに平等にわたしたちに分け与えられているのです。

答えはここにあるのです。でも本来の叡智というものは、智恵というものは、すべてに平等に、すべての者たちの中に分け与えられた、尽くしきれぬ、くみきれぬ、あふれんばかりの愛の思いというものが、人びとの心の中に脈々とあるのだということを、それを伝えることが今回の救世の大事業の神髄でもあるのです。

それを二千年前、インマヌエル、イエス・キリストは易しい言葉で民衆に大衆に語りかけられたのです。それで終わってしまってはいけないけれども、でも原点はそこにあるということ。
そこを繰り返し伝えていくということ。その上でキリスト教の中に欠けていた、魂が永遠であり、転生輪廻があるということ、そのことをしっかりと新たな法の集大成の中において、人びとに伝えていくということ。それだけで人びとは生きる価値観、人生観、幸福感、そのすべてが変わっていくのです。

第4章 アウグスティヌス:愛と叡智

1.愛の思いを伝える

2.永遠の魂の中で他者を愛するために生きる

3.神の子として愛を全開にして生きる

4.神の子として輝きを持って生きる

5.神の愛を行動をもって生きる

6.愛にあふれた地球をイメージする

7.本来の祈りとは愛の叫びそのものである

8.全身全霊をもって愛の事業を果たす

9.未来のビジョンを見据える

10.神の使者として命をかけて生きる

アウグスティヌス

(354年-430年)
イタリアなどで活躍したキリスト教史上最大の神学者。
若い頃から文芸や哲学をたしなんでいたが、聖書には関心を持てず、神秘主義的・善悪二元論的なマニ教の教えを聴聞していた。しかし、善は悪の欠如であるとするプロティノスなどの著作を読んだことでマニ教から離れ、熱心なキリスト教徒であった母親の影響などもあり、386年にパウロの書簡を読んで劇的な回心を経験する。以後、その生涯をキリスト教に捧げ、『告白』、『神の国』など数多くの哲学・神学的著作を執筆した。

アウグスティヌスは、「信仰があってこそ正しい知的な理解が得られる」と主張し、ギリシャ哲学とキリスト教とを融合させつつ、哲学の上に宗教を据えた。
アウグスティヌス主義といえば中世キリスト教神学の大黒柱であり、近現代のあらゆる西欧思想の土台でもある。レムリア霊言の中では、知性偏重の現代人に対して、愛という原点に返るよう促している。

3.神の子として愛を全開にして生きる

時代を越え、価値観を超えてですよ、さまざまな状況は変化している。わたくしが生きていた時代、それから今の時代ではまた、さまざまな文化尺度も違うでしょう。そして問題も、複雑な問題が次々と起きてくる。
でも、あらゆる問題が起きたとき、そこの中で何を判断にするかというと、やはりほんとうの意味で相手にとって何が幸せであるかということ。
それは優しい言葉をかけなければいけないときもあるでしょう。愛は励ましであることもあります。そして愛は優しさを現わすときもあります。愛は寛容さを現わすときもあるのです。
でも、いつも、いつも優しい言葉ばかりを言っていてよいのでしょうか。

時には相手を叱りつけるような厳しさでもって殴りつけるような思いで親が子どもを叱るときもあります。愛の中には厳しさという部分もあるでしょう。それがほんとうの意味で、相手にとって何が良き言葉であり、何が相手を真に生かすことであるかということ。
そのために心を砕き、思いを増し、そしてそこで智恵を、知識を使うというときにはじめて知識の、智の神髄というものが出てくるのです。

知性を、理性を使って愛を表現していく、他者を愛していく。愛のために知は使われるべきもの。
知のために愛がないがしろになってはいけないということなのです。

そして、それを一つひとつの状況の中において学んでいく、実行していくことができてこそ、その人は愛の使者となることができる。
それがインマヌエルがおっしゃりたかったことであり、そして我々が、我々の隣人の小さき神の子たちに対して、ささやかな行為の積み重ねの中において何ができるかということの、その積み重ね、それがその方の実力になっていくのです。

そうでなければ、すべて誰か一人だけが神の子であり、インマヌエル、イエス・キリストだけが神の子であり、他の者たちは神の子でないというのならば、神の叡智というものはインマヌエルしかわからなかったでしょう。

でも違うのです。
インマヌエル、イエス・キリストが説かれた時、あそこにいた何千という群衆たち、学問も教育も食べ物も何もなかった、でも、ついてきた彼ら、であっても、彼らもすべて漏れなく神の子たちであったということ。

であるならば、彼らの心の中に、ハートの中にあるその愛の思いは、インマヌエルが語られたその言葉がまさに神の愛を表すメッセージだったということを認めたからこそ群集がイエス・キリストの、インマヌエルのあとをついていったのではないでしょうか。

そうでなければ、何も持たぬやせた男が語ったからといって、みんな仕事を忘れ、家を忘れ、裸足で、みんな食べ物も持たずについていったではないですか。

それは神の子であるインマヌエル、イエス・キリストの愛の言葉が、本物であるということを、あんなに学問も何もない者たちですらハートで感じることができたということ。
真実とはそういうものなのです。愛の倫理というのはそういうものなのです。

あなた方はあまりにもひとつのノウハウやマニュアルを、求めすぎるのかもしれない。
こうあれば愛の人であるであろうと考えすぎるのかもしれない。
でも人は多く、あなた方が真実の人であるか、愛の人であるかを見破るときは、あなた方の全存在を、全行動を、語る言葉を、行いすべてトータルにその方の魂に触れながら、総合的に判断するものなのです。
だから、全存在を神の方向に開きなさい。
神の方向に開くということは、愛に向かって開きなさいということです。


愛に向かって開くのは何であるかというと、神の子であるあなた方一人漏れなく、すべてが神の子であるという真実を明かされたのですから、あなた方の中にある神の子としての愛を全開して、人びとにさらけ出して生きてごらんなさいということです。

そうすれば、あなた方の中に素晴らしい神より与えられた愛の光の奔流が作裂したように飛び出てくることでしょう。
それをもってあなた方は、周りの人びとを変えていくのです。
小ざかしい知識や言葉で、多くの人びとを感動せしめ、変えていけると思ったら、それは思い上がりなのです。

神近き人と呼ばれる人が何であるか。
その方が寄って来られるだけで、人びとは思わず畏れを、荘厳さの中にひざまずくではありませんか。
肉体を持っているからそれは難しいかもしれないけれども、少し話せばその方がどれだけの過去を持っている方か、今の方がただってわかるはずなのです。

あなた方一人ひとりを神の使者として、誰かだけが偉いというのではなく、あなた方一人ひとりが神の使者として、神より与えられたメッセンジャーとして、自らの中に神の子として埋め込まれた神性を全開にし、世の光となって生きられることをわたくしはあなた方に希望いたします。
それをもってしかこの地上は救えないのです。

2.永遠の魂の中で他者を愛するために生きる

その根本的なこと、その地上界と天上界と霊的な世界との、そのサイクルの中で魂というものは常に輪廻をし、その中で永遠の時の流れの中で進歩発展していく過程を、ひとつの学びの場として、この地上を、天上界を、神より我々は与えられているのです。
その中で永遠に進歩していく道のり、その過程こそが、我らが魂の境涯、生きざまそのものでもあるということなのです。
人生というと一回きりの、今世生まれた数十年だけがすべてであると思ってしまう。
それゆえに、大きな長い、長い流れの中からみた判断というものを、誤ってしまう。
長い、長い流れの中でみたのなら、今世あなた方がやっているのもひとつの劇場の芝居のようであり、今の役割であるということ。

そして、今世ここにいる者の過去世も、何世か出してみましたけれども、結果的にその人の使命に応じてその時代の中で、その方の使命がその方の個性がどのように生きんとしたか、それがいちばん問われるということ。
それをもって、今世また新たな肉体を新たな環境の中であなたは何をしますかと、それを問われているのがまた人生の課題でもあるということなのです。

何をすればよいかではなく、この環境の中であなた方は何をしたいと思うか。
それは自分だけを愛することではなく、それは自分以外の者たちをいかに幸せにすることができたか。
そのことをもって我が人生の価値とできる、価値の存在理由とできる。
そのことをあなた方はもうすでに、学ばなければいけない時にきているのです。
あなた方も原因結果の、因果応報というものを学んだであられましょう。
それは他者のために、他の方がたの幸せのために、他の神の子たちの幸せのために、と思って心を尽くし思いを尽くして生きることは、結果的に「自分のためにならないでくれ」と思っても宇宙を貫く因果律の法則の中で、それはすべてが自分に戻ってくるということ。

それは、他者のために他者を愛するために生きたと思ったことが、実は巡り回って自分を愛し自分の人生を大切に生きたという証しになるということ。
自分が良い思いをしたいから他者を愛するのではなく、無私な思いで他者の幸せを願って生きようとすること。

その中においては、他者においていかに愛の言葉を法というものをわかってもらえるかという、相手の目線に合わせた思いの中で、相手の理解と相手を幸せにしたいというほんとうの近寄っていくような魂に近寄っていくような、その思いの中で語りかけていったとき、そしてそれが相手の方の人生に一筋でも光となり、希望になったとき、その喜びを通して我が喜びとし自分の人生がまた光り輝く瞬間でもあるのです。

4.神の子として輝きを持って生きる

マザー・テレサという方が何をしたか。彼女は本を書いたでしょうか。たくさんの難しい法を語ったでしょうか。
でも違ったのです。
マザー・テレサのしたことは全存在を神の愛の法灯として、愛の光の奔流として、この世界中を照らしたのです。
彼女の愛で、彼女が神より与えられた神の子としての愛の大きなるたいまつを、彼女はあの小柄な体を通して輝かして見せたのです。

彼女のやった業績はたくさんあるでしょう。ハンセン病患者の施設をつくった。孤児院をつくった。いろいろなことを、たくさんたくさんやられたことでしょう。
でもそれは他の方でもできたかもしれない。では、何ゆえ彼女が聖女と呼ばれたか。

彼女のその生きる姿勢、その生きざま、語る言葉、その全存在をもって宗教宗派の違う者たちに対してですら、「ああ神は確かにおられるのだ」と、「この地上に、確かに神の使者は生きておられるのだ」ということを彼女の全存在をもって、彼女の行動そのものを、人生そのものを通して、人びとは言葉を越えて神というものを感じることができたのです。そのことに意味があるのです。

難しい言葉、確かにその知よりの探求によって、あなた方でいう神理の山の頂上に辿り着くということもあるのです。その道もある。
あらゆる感性、知性、理性、すべてを通して山のトップに上がるということはできる。
でも多くの者たちは、わたくしの説いたような、あのような哲学的なもので山の頂上に上がることはできないのです。
上がるのは神の使者たちのその生きざま、その後ろ姿をもって、あなた方についていくのです。

神の子として、光の子として生きるとはどういうことかという、その模範を示すことをもって、あなた方のその生涯の価値もあるということをわたくしは言いたいのです。

知性が悪いとか申していません。書籍も出していただきたいし、小冊子も出していただきたいし、我々がやったようなバイブルの口語訳、そして他の国の言語への翻訳をしていくということ、法の編纂をしていくということなども確かに大切な、期待されていることです。これをぜひとも頑張っていただきたいと思います。

でも、それを通して救う時代、確かに知的な方がたが多くなった現代でありますから、それを通して伝えていくそれもひじょうに大切なこと。そしてそれをもっと易しい形で、一般の方がたの触れる言葉として、それを小冊子のように出していく。
そのようなこと、インターネットなど、あと芸術の方面を通して、多く一般大衆に伝道していくということも大切なことです。

しかし、それを読んだ方がたにその次に言っていただきたいのは、単なるベストセラーのようなものとしてだけではなく、それを読んだ方がたの生きざまが変わっていくような、そこまでをもってほんとうに真に理解したと言えるような、神の子として、光の子としての生き方とは、どうやって輝いたらいいのか。

みんな神の子なのです。みんな輝けるのです。でも光の子として、神の子としての輝き方を忘れてしまっているのです。それをもう一度人びとに提示していく。教えてあげる。

それをするにはどうするか。
あなた方一人ひとりが神のメッセンジャーとして、真にその人生をかけてトータルな言葉、トータルな生きざま、行動、それを通して真に神の子とはどうやって生きるべきかを、あなた方が表さなくてはいけません。

5.神の愛を行動をもって生きる

優れたものを出していったのなら、人と変わっていったものを出していったのならば、叩かれ、迫害されるのが世の常でもありました。

キリスト者と呼ばれている者たちは、今日世界的に広がったキリスト教というものの結果だけで、良くやったというのではなく、そのためにどれだけ多くの者たちが殉教して死んでいったことでしょう。

でもその一途な、殉教されても、それでもイエス・キリスト、神を信じ続けた、その彼らの死に至るまでぎりぎりのその壮絶な生きざまを信仰心を見て、殺していった者たちが改悛し、改心し、キリスト教を広めていくエネルギーとなって、今日まで広がってきたのがキリスト教の歴史でもあるのです。
だからけっして最後の瞬間まで、死んでいった者たちの姿というのは無駄ではなかったいうことなのです。
本気になることです。

神の愛を表現する者として生き抜く。
神の愛を生きる者として、神の愛を考えたり、神の愛を語るだけでは不十分なのです。
命がけで神の愛を生きるのです。

6.愛にあふれた地球をイメージする

そしてほんとうの意味で、今もっと進んだ惑星にあるような統一政府の中にあり、神の愛そのものを表現する、喜び合い、称え合う、そういう者たちが住む、そういう地球の未来をイメージするのです。
そして、それをイメージしたのなら、本気で信じましょう。
それが起きるのであると。

それはほんとうにわたしたちの手の中にあるのだと。
それを神が望まれているのだからこそ、わたしたちはその地球を、この地上に再現するのであると。
そのために命がけになるのであると。
それが神の愛を実践する、神の子たちの生きざまそのものであるのだと。
心からみんなで自分たちに言い聞かせましょう。
そして、それを信じましょう。

暗い、壊滅的な、悲惨な未来をイメ-ジしていれば、そのような未来を呼び込んでしまうものなのです。
明るい神の光に照らされた、まばゆいばかりの愛にあふれた地球を、みんなで願い続けるならば、その未来はまた、実現は近くなるのです。
思いとはそういうものです。
言葉とはそういうものです。
そしてそれこそが、愛そのものの表れていく本来の方向であるのです。

7.本来の祈りとは愛の叫びそのものである

素晴らしい未来を、ビジョンの中で、みんなで、祈りの中でイメージしましょう。
それが本来の祈りの意味なのです。
難しい型通りの言葉でおごそかなミサをあげても、人一人救えないときもあります。
形通りの中で、言葉だけで神への信仰を語っても、ほんとうの意味で誰も救えないときもあるのです。

よろしいですか。
本来の祈りというのは神の光の方向へ、愛の実現のために、我が愛する神の子たちの幸せを願うために、心から神に向かって問いかける愛の叫びそのものを祈りというのです。
祈りとは本来そういうものなのです。

マイナスのエネルギーの方向に想うことが祈りではないのです。
そして、自分一人の我欲のためだけに欲望を並べることをもって、祈りとは言わないのです。

自分も含め、多くの神の子たち、仲間たちの幸せのために、神の国実現のために、愛を実現していくために、思いを尽くし、心を尽くし、どうか我々の素晴らしい神の計画こそが実現されますようにという思いを込めて、素晴らしい七色に輝く地球の未来をみんながイメージしたときそれをもって本来の祈りというのです。

そのとき宇宙の本源からこられる愛のエネルギーが力を貸し、あなた方の思いというのは具現化されていくのです。
そのような形をもって、神は宇宙を創造されたのです。

わたしたちは地球を任されている地球人であります。
ならば、わたしたちの愛の思いで、神が宇宙を創造されたように、美しい光と希望に満ちた神の星としての地球をみんなでイメージし、そういう地球を創造しましょう。
実現していきましょう。
マイナスの思いは出さずに。
わたしたちだけでも、光に満ちあふれた七色の地球をイメージしましょう。

祈りというと、今まででいうのなら、仏教でいうと般若心経とか、我々でいうなら主の祈りであるとか、ロザリオの祈りとか、そういう型にはまった祈りをもって祈りといったかもしれない。
そうでなかったら、普通の方がたでいうのならば、自己の欲望というもの、それを並べ立てることをもって祈りであったり、祈願であるといったかもしれない。
本来の祈りとはそんなものではないのです。

宗派、宗教、そして型にはまったものをもって祈りではない。

真の神に対する呼びかけであり、それは神という言葉ではなくても、自らの中にある神性、自らの中にある神の愛の思いに対する呼びかけでもあるのです。

誰でも可能なのです。
何々教の何々様の、教組様に語りかけなければだめということではないのです。
いちばん大事なのは自分の胸に問うてみることです。
自分が本来望んでいる神の子神性に対して恥ずることなく、自らが理想とすることは何であるかということを真に問いかけ、そして、その実現を願うことです。

そうすれば、遠くに行ったり、多くのお礼や神社の中や、カテドラルの中にあるような神に語らなければ祈りはできないと思う、その錯覚からは開放されていくのです。

これからはそのような宗教、宗派が、すべてが取り払われ、そして宗教という既成概念を超えて、神という言葉も超えて、神というのが愛の法則である、宇宙を生かしめる愛のエネルギーそのものであるという前提に応じた、そういう新たな価値尺度の時代がくるのです。
それを統合していくためにあなた方の使命があるということです。

なかなか具体的につかめないかもしれないけれども、一つひとつ階段は上りなさい。
今あなた方に究極的なことを言ってもわからないから、我々はステップバイステップであなた方に話をしています。
一歩ずつ理解を深め、上がっていらっしゃい。

8.全身全霊をもって愛の事業を果たす

愛というのは忍耐を伴います。寛容さを伴います。
そして情熱を伴い、必要とし、努力を必要とするものです。

そのすべての過程の中でこの第三の計画を、愛の事業を果たしていこうとする過程の中で、あなた方にトータルな、愛は何であるかということの実力というもの
学習というものが身につくのです。

だから、この救世の大事業が出たときに、多くの光の天使たちが参画したがって、たいへんな高倍率でみんな出て来たがるというのはそういうことなのです。自分だけが学んでいても、自分だけの世界で自分だけでやろうとしても、それだけトータルな実力はつかないのです。

それは学習、学問においてもすべてそうだと思います。だからこのような計画が出たときに、どうか全身全霊をもって、頑張っていただきたいと思います。

今は編纂という中に、法というものの編纂という中に、新しき書籍の編集、出版ということがあります。そしてホームページの管理ということがあります。

ホームページというものを、もっと多く一般の方に開いていけるような、そのようなもっともっと霊言をアップしてください。どんどんアップしてください。全部でなくていいのです。でも大事なところをどうかアップしていただきたい。本を一冊買えない方たちに対しても、そして本を買ってみようかという気持ちにさせるためにも霊言を惜しみなく出すということを、どうかその担当者を決めてもいいですから、どんどんアップをしてください。

そして、日本中に散らばる光の天使たちに協力を求め、どんどんあなた方たちでやろうとしなくていいですから、多くの方がたにテープ起こしなんかを頼み、編集の仕事もどうか頼んでいただきたい。

そうすると、呼ばれた者たちはとても喜んで参加しようとします。そしてその中でますます使命と自覚というものを深めていくのです。そのために彼らは出てきたのですから。呼びかけて来ない者は構わないのです。来る者たちを連れていきなさい。

そしてあなた方も、最後までついていけるように頑張りなさい。
ここはついて来る者だけがついて来るのです。
ついていけない者は静かに去っていけばよいことなのです。
ですから、最後までここに頑張れるあなた方であることを心から祈ります。

わたしの仕事というものは、学問というものを通して、学問体系を通して、神の言葉、叡智というものを人びとに、世に知らしめることが役割でもありました。でもそれの弊害というものが世にはびこり、今、知性万能、知識偏重の時代がきたときにこそ、わたくしはもう一度、再び愛の原点に戻りたいと思うのです。

けっして人類が学んできた、学問体系化した道が無駄であったとは思わないのです。そこの中にもまた神理はあるけれども、そういうものだけでは逆に世界は何も変わらなかったと、破滅への道を防ぐことはできなかったということを学んだのも、また人類のひとつの学びであったと、わたくしは思うのです。

かつての難解なものに固執することよりも、新たな希望の時代を開くために、愛の原点に戻った真実の愛を、愛の光を放つ、そういう言葉を発して書物を出し、多くの人びとを救っていきましょう。

そして言葉だけではなく、その言葉を語り伝える方たちの死ぬ気の、命をかけたその生きざまをもって、多くの人びとはあなた方の後ろ姿の中を通して、この差し出された一冊の書物が真実の書物であったということに気づくということを、わたくしは今日、申し上げたいのです。

9.未来のビジョンを見据える

あなた方のところに来ている、坂本竜馬とか、明治維新の方がたの話をわたしも聞かせていただきました。
学ばせていただきました。
彼らはわたくしから見ると、わたくしの修道会、わたしのホワイト霊団で、命がけで殉教していった者たちの姿にたいへんよく似ているのです。

神の計画の中で、神のために、神の愛を伝えるために、自らの命を犠牲にし、命がけで命を張って、多くの未来の人びとの、人類の幸せの、未来の人類の、日本国民の、未来の日本の人びとの幸せのために、命を投げ出した方がたではなかったでしょうか。

彼らが見据えた、見抜いた、その希望という未来に対するビジョンというものの素晴らしさと同時に、彼らの命を張ったその真剣な生きざま、その姿をもって後世の者たちは彼らを称え、彼らの夢を素晴らしかったものであると、見習おうとするのではないでしょうか。

命がけになった生きざま、真剣な生きざまを抜きにして、いかなる美辞麗句を並べ立てたとしても、どれだけ素晴らしい書物を、バイブルを人びとに渡したとしても、それを受け取った人びとの人生は変わらないのです。・・・

ですから、「迫害する者のために祈れ」という言葉が聖書にあります。
迫害してくれる者たちにありがとうと感謝をし、「わたしたちが真に神の子として生きる姿を表す、チャンスをあなた方は与えてくださったのです。ありがとうございます」というふうに、人びとに、多くの方がたに思う境地になったのならば、あなた方に怖いものは何もないはずなのです。

10.神の使者として命をかけて生きる

そして、この計画の中で我が人生を投げ出し、神の使者として、道具として命がけで生きようと、ほんとうに不退転の境地になったのならば、「たとえこの身、切り刻まれようとも、すべて財産取られようとも、わたしは神のために頑張るのです」と言える、人生に誇りを持てるのであるのならば、何もあなた方に怖いものはないではありませんか。
それがホワイト霊団のキリスト者たちの心がけなのです。
その気持ちの中にサタンなどというものは何の力もない。
その中において彼らすら、殉教させてくれる、自らを神の子として証してくれるチャンスを与えてくれた者であると、彼らに祝福を与えながら死んでいくことができたということです。

そのような境地の者は、けっして地下の世界には行かないのです。
ですからあなた方も、我々ホワイト霊団の者たちのことは全部とは言いませんけれども、もし思われるのならば、目に見えない不安、恐れというものはけっして受け付けないようにしてください。

不安や恐れを持つと、それは内の中で現象化され、さっきの良き言葉が現象化されるのと同じで、やはり現象化されてきてしまうのです。

そんなものに目をとらわれることなく、何が来ても、我が身切り刻まれても、自分は、自ら神の使者として生きることに誇りと喜びを持つと思えたのならば、何もこの地上生命の中で怖いものはないということです。
心揺るがすことはないということです。
そこにおいて、何もサタンにつけ込まれる余地などはないのです。

あとは喜びだけがあるのです。
神に祝福された人生だけがあるのです。
そして、真に強くされていく人生があるのです。

ですからあなた方も、どうかその気持ちの中において自らを強くせられ、信仰により強くし、愛に清められ、神の祝福と栄光の中で生きられる、そのような生きざまをもって今回の価値ある人生を全うされていかれることを、わたくしは希望いたします。

では、今日はこれにて失礼させていただきます。
神の名によりて、あなた方に祝福を与えます。
神と子と父の名によりて。
アーメン。
失礼いたします。

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