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Project Eden

第6章 ゾロアスター:現代において信仰がいかに大事であるか

1.信仰とは魂で熱く神と向き合うもの

2.神ここにありというエネルギーを全身にたたえるのが救世主

3.信仰心から隔絶された現代日本の日常生活

4.神の心そのものが善の基本である

5.神は最初から悪など創造していない

6.信仰の原点は神への熱き思い

7.知で法を説いても人の心はついてこない

8.いちばん大切なことは神とともに生きるということ

9.地上とは行動を通して信仰心を表明する場所

10.神の計画のために命を賭して頑張っていただきたい

11.未来の地球を愛の星とするために

ゾロアスター

紀元前1,200年から1,000年頃、イラン高原東北部にて、ゾロアスター教を広めたと伝えられている。ユダヤ教に先駆けて、天地の創造主である神への信仰、死後の審判と天国の存在、世界の終わりに現れる救世主などへの信仰をといた。善霊アフラ・マズダと悪霊アーリマンがこの世の中で対立しているという善悪二元論をとなえ、人間は、自分の意志に基づいて、善と悪のどちらの側につくかを選択しなければならないとした。

ゾロアスター教は、火を神聖視するため、拝火教とも呼ばれた。ゾロアスター教の世界観は、その後のユダヤ教やヒンズー教、イスラム教の成立に深い影響を及ぼしたと考えられている。「ピタゴラスがゾロアスターに教えを乞いに行った」、「ゾロアスターは笑いながら生まれた」、「ゾロアスターは20年にわたって砂漠に住み、いつまでも腐らないチーズを食べて修行した」などの逸話が伝えられている。なお、ゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」には、さまざまな儀式における祈りの言葉などが記載されている。役割分担:道徳的完成を担当。
転生等について:ペガサス座の星から招聘。サマトリア→エスカレント→ゾロアスター→マニ

1.信仰とは魂で熱く神と向き合うもの

このたび日本の地に生まれた、あなたと通信をし、このような出番をいただいたことを心から感謝します。

私はこの時代の日本語というものに馴染みが薄く、通信方法においても不慣れなために、とてもお時間をとらせ、コミュニケーション手段が、言葉として拙いものになるのを、どうかお許し願いたい。

このたびのORの不祥事における、天上界の意向を伝えたいと思い、私は今日出て参りました。
彼がなしたことは、我々指導霊においては、確かに皆堕ちる危険性において、平等にあるものではあるのだが、彼自身が犯した、彼自身が勝てなかった、彼自身が欲望に負けたという姿、それにおける罪はやはり大きいと理解します。

間違っているものは、間違っているし、我々においても、それで彼を責めるのではなく、我々の責任の所在をしっかりと見つめ合うということでなければ、これから先、我々の指導も、地上の者たちにとって、信頼のあるものとならないし、我々においても、責任の決着をつけてゆかねば、このようなことを再び犯さないという学びにすることもできないと理解しているのです。

確かに九次元指導霊であっても、魔にそそのかされ、自己の弱さにつけ込まれ、このようなことが起こるということはあるのだが、このたびのOR自体が持ち合わせていた、その性格的未熟さゆえの宗教指導者としての心構え、そして、信仰生活とともに、培われるべきであった幼少期からの神仏に対する謙遜と、献身の姿というもの、神を畏れるという、その根本的な修行形態が幼少期からの彼の姿を見ていると、確立されていなかったように思うのです。

そこにおき、信仰生活というものが、神を信じるということが、どういうものであるかということが形成されるべきときに、そのような環境になかった。
自分の野心による学問ということにおいては、彼は努力したであろうが、まず、自らを慎み、神仏の前にぬかずくという、幼い時からの信仰生活の核があってこそ、その後の多くの膨大な知識と、書物による多くの文献というものが、彼の知恵の中で、神仏の智慧として、活きたのであろう。

しかし、そこの根本が確立できていなかったがゆえに、彼の中には、知でのみ神を語るという、ひじょうに上滑り的な、表層的な、知の理論における信仰論というものしか語れなかった。
そのような原因をつくったのだろうと私は思う。

神仏というものは、信仰というものは、心で、魂で、熱く神と向き合うものなのである。
心で、魂で、ハートで神へ向かっていったときに、そこの神の愛というものが、神の光というものが、我が血潮の中に流れ入り、自らを知らしめる、地上の生ける神の代弁者としての使命を果たすことができる。

烈火のごとく体中から、神の血潮がほとばしり立つような、神の使者としてこの地上の使命を果たすことができるのである。

その熱い心情を抜きにして、表面的な知の理論だけで、神を語ったとて、誰も神を語れる者はいないのだ。
信仰において大事なのは、知の理論ではなく、己一人ひとりの心の奥底にある、神の子としてのおのが魂の本流に、天上界の神の思いを直結させたときに、地上と神仏との間のパイプが開かれ、神からの、熱い血潮となり、神の英知がとうとうと地上に流れ降りるのである。
受けとめるのは魂なのです。

2.神ここにありというエネルギーを全身にたたえるのが救世主

神の子としての神性に感応した我らが魂が、その神の高貴さ、神の偉大さ、神の荘厳さに触れて、おのが魂を震わせ、その熱き血潮を我が体の中に表現せしめ、神の生きた存在として、この地上に生きた存在として、神を表現しうる、それこそが神の代行者であり、神意の担い手となって、地上の者たちに神仏のメッセージを伝えることができる。
それが私は、地上に降りた指導霊、高級霊といわれる者たち、ましてや私たちのようなメシア界と呼ばれる救世主の世界から降りた者たちにとって、いちばん大切なものではないかと思います。

そこが彼は欠けていたのです。
いくら書物を読もうと、いくら有名な大学に入ろうと、どのように世間で名声を博そうと、そのようなものでは、天上界とのパイプは開かれないのです。

生きて地上に立っただけで、神のエネルギーを、神こそここにありと思わしめるような、そのようなエネルギーを全身にたたえてこそ、生きる神の代行者としての、救世主という役職の者が持つエネルギーを放つことができるのです。
彼にはそれができなかったでしょう。

それは、根本的に神を信仰し、神を畏れ敬うという、その基本的な姿勢が彼の中に確立できずに、そのまま成長してしまったということ。
あまりに知に偏りすぎ、知に過信をしてしまったがゆえに、盲目的に神を信じるという、そのことをどこかで軽蔑していたのかもしれない。

でも、それが彼自身の中の悟りにおける偏りとなり、知の理論でのみ人を縛っていく、そのような、高邁な神理に見えながらも少しも人の心を、魂を震わすことのない言葉しか彼自体が吐けなかったというーー、、教えの中に、魂を震わせ、涙を流させるような神の波動をぶつけることができなかったということ。
それが、わたしは彼の限界であったのかと思うのです。

イエス・キリストの教えを見てください。
かつての仏陀の教えを見てください。
彼らがしゃべった時、多くの者たちがどのように反応したかということを考えれば、今世のORがどのような説法したかということの比較がよくわかるはずなのです。

神の代行者というものは、神より預かりし言葉をその言霊に寄せて人びとに発したとき、その熱き情熱において、多くの人を震わせ、感動させ、本来の神の子としての姿に立ち戻していくという、天上界のパワーを発することができる。
そのようなものあってこその、救世主の立場であるということなのです。

まことに残念ながら、わたしの見ていた限り、彼の言葉の中から、そのような神理の直撃が出た講演会というものは、ほんとうに数えるほどしかないのです。

その焦りが、やはり彼自体の魅力のなさとして、多くの人びとの反応に出て、高橋信次という方が通信を送れば、人びとは正直です、魅力のあるほうにやはり人気というものは集まる。
それに対するますますの焦りが、彼の中で大きくなっていったのだと思う。

知でいくら人を説いていっても、どれだけ難しい理論書を説いていったとしても、人びとは少しも魅了されることなく、その言葉に酔いしれ、この人について行こうという、忠誠心などはおきないのです。

だからこそ、なおさら仏陀サンガーという組織の中の締めつけにおいて、自分の言うことを聞かすように、そのように頭のよさを使っていった、彼なりの焦りであったのです。

そんなことをしなくても、熱き情熱の中で、魅力ある神の言葉を語り続けていられるならば、彼の人気はどれだけでも高まっていったことでしょう。
それが彼の中に、自分に対する焦りとして、今日のような結果を招くきっかけをつくってしまったということ。

3.信仰心から隔絶された現代日本の日常生活

ひじょうに、幼少期からの姿を見ていると、もう少し信仰心に満ちた家庭のもとに、もう少し信仰心に満ちた環境のもとに、彼を出せなかったものかと、思うのだが、今日の日本という場所が、いかに日常生活の中に、神とともにあるという、信仰心から隔絶された日常を、今現代の日本人というのが送っているのかということをつぶさに見せられたような気がします。

我々の住む中東、あのあたりでは、朝太陽が昇り、太陽が沈むときまで、常に神とともにあるのです。

仕事をし、ご飯を食べ、祈り、そして仕事に行く時でも、仕事でお金が儲かった時でも、すべてが神に対する感謝に結びつく。
生活の中に、神を畏れ敬い、神に感謝して生きていく、神に見られても恥ずかしくない自分でありたいと願う心が、彼らの理想であるという、生きる目的であるという、そのような人生観を生活の中に息吹として、たたえながら生きているのです。

しかし、現在の日本人の生活を見ているとどうであろうか。
太陽の光りにより神に愛され、毎日毎日豊かな生活をし、美味しいものを食べていながら、ともに助け合い、ともにいたわり合い、神により生かされていることを感謝し、神仏に畏れを抱き、神に感謝をして、人生を真摯に生きたいと思う姿が少しでもあるであろうか。

そのようなものからこんなにも離れた社会があるということ。
それは同じ地球という時間の座標軸の中で、同時代に生きていながら、このように神仏から離れた、このような日本という場所があるということ。
これは私の育った、私が生きていた時代、そして今の中東から考えても、とても不思議な、とても不幸な状態であるとわたしは思います。
このような土壌の中に生まれてきたということ。

今この霊言をとっているアマーリエというこの人は、少なくともキリスト教という、ミッションスクールという恵まれた環境の中で、キリストの教えのもとで生きてきた。
それゆえに神仏に対して、天上のイエス・キリスト、神という、父なる神というものに対して、礼拝し、畏れを持ち、精霊に対する敬いというものを、知らず知らずのうちに、聖書のバイブルの中の言葉とともに、身につけて育っているのです。

今世ゼロからスタートしている部分の中で、このような宗教的な素養というものは、生活の中で、幼きころより身につけてこなければ、なかなか身につかぬものということなのです。

4.神の心そのものが善の基本である

知でばかり宗教を語っても、心がついてゆかない。
魂の叫びの中で、神を求める幼子のように、神というものを激しく追い求め、人生をかけて、神への道を全うしていく。
それこそが神仏の姿であるということ。
それこそが神の決められた善であり、神がよしとなされることなのです。

あなた方は何が正しく、何が間違っているのかを、自分たちの判断で決めようとしているのかも知れない。
私が申し上げるなら、善悪の善というのは、神の側に立った視点であるということです。
神の視点におき、正しいということ、それが善なのです。

それは天上界の神の一方的な押しつけに見えるかも知れぬが、そうではない。
神の子として、あなた方一人ひとりの魂の中に、天上界の神と同通する神の子としての、共通倫理としての教えが、あなた方一人ひとりの中に、埋め込まれているからこそ、神の教え、神の心そのものが善であると、わたしは言うのである。

神から離れ、人間心だけでこの地球を汚し続け、人間の心の醜さゆえに、このような戦争が起きていく。
それは神の決めたお心による善ではなく、人間心による、招いたそのトラブルの結果としての悪があるということ。
そこに同通する地下の者たちが、彼らの悪意をもって、悪というものを形成してきて、暗黒の闇をつくっていっている。

本来神の心すべてであるならば、この地上も天界もすべてが光に満ち、明るさに満ち、多くの神の子である地上の人間たちの心も、生活も、すべてが光り輝く、そういう地上であり、人びとの心はそれにより平和に満たされ、善意なる思いの中で、神というものを表現し、神の子として、賛美をして生きていくものなのだ。
そこまで神は、神の子としての人間一人ひとりを信じ、愛すべき自分の分身として、地上の人間をつくられているのです。

それを人間心が、人間の心が神を裏切り、悪想念というものを呼び込んでしまっている。
悪というのは、神と反対のものということ。
神の意思とは反対のものということ。
神の意思には沿わぬということ。
その最初は何か。

神の意思を、神の心を心とせず、人間たちが勝手につくり出した、人間心によるその思い、それが膨れにがり、そこに地下の魔界の者たちに来られるという結果におき、天上界に相反する悪というエネルギー体が存在して、それが善悪二元論のように言われたかのように、今の日常では言われている。

しかしそれは、最初から善があり、最初から悪を神がつくられていたのではないのです。
神の心そのものが善の基本であるのです。

そこから堕落していったその人間たちの身勝手な思い、神を神とも畏れぬ思いのところに巣くった結果、一大勢力としての悪というエネルギーが、この光と闇という相対論の中においてエネルギーを伸ばしていき、まるで善が半分、悪が半分であるかのような、善悪二元という同等の価値を主張し始めた。

5.神は最初から悪など創造していない

最初、地球において、悪という四次元幽界から地獄界という、そういう世界は広くはなかったのです。
ほんのわずかな者たちがいるだけに過ぎなかったのです。
けっして二元ではないのです。

二元ではなく、善一元であったところの中に、悪の勢力が着々と場所を増やし、まるで善に対抗する悪が、サタンが最初から神に相対立するものとして、同等のエネルギーを振るっているかのように、太初の起源からあったかのように主張しているだけに見えるだけであって、本来の神のお心を、神のエネルギーの相対量から見たら、ほんの小さなほくろにも過ぎないほどの悪のエネルギーの量でしかないということなのです。
だから善悪二元論というものを、最初から二元論を相対量の中において、大きくとらえすぎてもいけないということなのです。

たまたま不幸にして地下に堕ちる者が続き、ますますその磁場を大きくしているということ。
その無限供給のエネルギーを地上界が地獄界に大量に発信しているという姿、その姿において地獄界がますます拡大してしまっているというだけのことなのです。

それが最初から、神が創造のときから、神に対極するものとして、サタンという悪魔というものをつくり、天界に対して地獄界というもの、闇というものを、最初から悪としてつくられたというわけではないのだということ。
それをしっかり認識しなくてはいけない。

ただ、古代の仏典、古代の聖書や神話の中においては、そのような経緯を話してもわかる者は少ない。
ただ、天上界があり、天国があり、地獄界があり、悪いことをすれば、地獄界で閻魔様によって罰を受けるんだという、そのように幼稚な理論で人びとを、教訓の中で正しい方向へ善導しようという簡単な理論の中に、引っ張ってきたのも事実なのです。

しかし、私たちが今一度、善なるものを認めるときは、神の御心に沿うているのか、神を畏れ敬い、わたしは神の子として、正しく生きているのであろうかという、自らの善我なる良心に問い続けるという姿、そこにおいてのみ、善というものがあるのだということをーー。

悪を神は最初から創造してはいないと、神に逆らうもの、神の意思を素直に受け入れ、神の子としての神性を輝かすことを拒む姿、その自己保存欲という、自我我欲というものにおいてのみ、それを善ではないものとして、悪というふうな、結果の流れの方向において、悪という流れができてきてしまったということ。

それを考えれば、神のもとにつながり、神のメッセージを地上に伝えるという者、その者たちが、どれだけ神の期待を担い、この地上を善導するという言い方があるが、善導していく、神に善導していくということは神のもとへ引っ張っていくという、神の心のもとに引っ張っていく、多くの人びとを、そのような使命にある者が高級請霊である。
使命を帯びた光の天使たちの仕事であるということなのです。

そう考えるのであるならば、ORという人がこの世に多くの天上界の法を預かってきたのだが、根本的な、神を畏れ敬い、神を信じ、神を愛し、神の僕とし、神の道具として、この地上に人びとを善導し、善我なる良心に立ち返らせ、上のほうへ人びとを指導していこうとする、その熱意において、彼はまだまだ信仰の基本が押さえられていなかったということ、育っていなかったということです。

6.信仰の原点は神への熱き思い

それは多くの日本人において、神という名を語るのは恥じるということ、わたしから見たらまことに信じられない、まことに考えられぬ、ひじょうに愚かな国民のように見えて仕方がないのであるがーー。

神というものを語る時、誇らかに愛に満ち、自分の全存在の心を、生きがいすべてを、神に認められるためにしていこうという、今の中東の人たちの姿を見ていただきたいと思うのです。

彼らにおいては、自分たちの宗教の枠にはまり、アルカイーダとかいろんな者たちが残虐なことをやっており、とてもあなた方日本人から見ると、宗教による恐ろしさというもの、宗教に狂った者たちが、あのようにも残酷になって、命をかけるのかと、信じられない思いであるのかもしれない。

でもわたしはその意味においては、彼らは狭い判断力しか持たないかもしれないが、根本において、神に認められるためならば、神に愛され、ほめていただけるのであるならば、この命捨てでも、大儀のために命を果たすのであるならば、たとえ露と消えようと爆薬とともに吹っ飛ぼうと、それにおいては、まさにそのように生き、そのように死にたいと、神に対する熱き思いを持ち続ける彼らを、逆に、ほめてあげたいような気がするのです。

信仰心というものは、まずそこがなくては、どれだけ難しい言葉を、難しい法を、知識を勉強したとしても、その熱き神に対する思いがない者に、神を語る資格はないのです。
信仰を語る資格はないのです。

まして地上にいる人間たち一人ひとりがすべてが神の子であるのだから、神の子であるならば、神の奇蹟を伝える、そのような使命において、神と同通できるような者たちが、多くの使命の中で、地上の者たちを善導していく、その使命を全うしていく、そのためにお役に立てる姿こそ、自らの誇りとし、自分の生きる価値として神に認めてほしいーー。「神よ、私は正義のために、こうやって散っていくのです」と胸を張り、神の前に自分の人生を捧げていく。

その熱い思い、これが我々中東と言われている地域に住んでいる、者たちの、神に対する熱い熱いラブメッセージであるのです。
これが信仰の原点であるということなのです。

冷たい知に閉ざされた、頭でっかちの神理で人の心は動かないのです。
熱い思いだけが人の心を、ハートを震わせ、人びとを駆り立て、命まで惜しくないと言って、一国を動かし、世界を動かしていくエネルギーになるのです。

7.知で法を説いても人の心はついてこない

高橋信次という方が多くの人びとを魅了して、いまだに多くの異人びとを魅了そてやまない姿はなぜでしょう。
彼は知で法を説きましたか?
けっしてそんなに賢いことを言った人ではないと思う。
でも彼には熱き情熱があった。

この地上に最後の命尽きる瞬間まで、神のために、自分の信仰というものを、現象を通して多くの人びとに証明していきたいという、熱い熱い情熱が、仕事に対する熱い情熱があったし、多くの彼の周りに集まってくる人びとに熱い愛の思いが、高橋にはあったではないか。

それがいまだに高橋という方のファンを次から次へと生み、死してなお、復活してなお、その語る言葉の中に人を魅了してやまないものがあるからこそ、「高橋教」とまでいわれるほどの多くのファンが、次から次へと出てくるのではないだろうか。

彼はやはり砂漠の神であったという意味において、私たちと同通する熱い信仰に対する思い、そしてこの「ヤハウェよ、エホバよ」と言って、慕い来る信仰心厚き民たちに対する、エホバ、ヤハウェの神として、すべての自分のもとに来る民人たちを愛してやまないという熱き思いが、圧倒的な愛が、彼から流れ出てくる。
その心と心のぶつかりが、死してなお、高橋という人を、多くの醒めた日本人の中においても、慕わせる原動力になっているのだ。

けっして難解な知で法を説いたから、高橋という方がいまだに人気があるわけではないはずなのです。
初期の頃に彼が説いたことは、間違いも多々あるし、けっして難しい言葉ではないし、けっしてそんなに優れた高次元のことを言っているわけではないのです。

でも、知でどんなに法を説いたところで、人の心はついてはこない。
人気も出ない。
そこがORの焦りとなり、高橋、エル・ランティに対するジェラシーという姿を生んでしまったのです。

それは、仏陀として生まれたORだけの責任とは言えないかもしれない。
確かにこの現代の日本という土壌の中に隠された、悲劇であったのかもしれないと、私はそのようにも思うが、でも神近き神仏からの、まして我々の世界から出た使者であるのなら、神の心に立ち返るということを、今一度彼自身の中で深く悟り、認識し、若き頃に自分の中からキリスト教を通してでも、仏教を通してでも、その熱き信仰心に目覚めてほしかったものだと、心から悔やまれるのです。

その厚き信仰心あってこそ、大量の書物を読み、法というものを降ろしてこそ、その法の中に、熱き信仰の血潮の息吹というものが流れいで、多くの人びとを直撃する、圧倒的なエル・カンタラーの法となったのです。

エル・カンタラーの法に至りきれなかったのは、結果的に2600年前のインド時代の釈迦意識を出すにとどまってしまった、それに終わってしまったのは、そこにおける、厚き信仰心、神仏に対する情熱というものが欠けていたがゆえに、いくら知を降ろしてみたところで、知で悟ってみたところとて、エル・カンタラーの法にはならなかったということです。

天上界におられるエル・カンタラーというお方は、それはそれは圧倒的な愛の持ち主であり、圧倒的な神仏に対する、謙遜な、謙虚な、深い信仰心の持ち主の方であります。

それはそれは、圧倒的なまでに謙虚な、圧倒的なまでに多くの地球人を愛してやまない、熱い熱い心情の持ち主の方であります。

その熱情に同調しない限り、いくら知で彼が、人間ORが説いたとしても、彼にはエル・カンタラーの本来の悟りというもの、エル・カンタラーの法というものは降りないし、同通できなかったのは仕方なかったということです。

8.いちばん大切なことは神とともに生きるということ

アフリカなどで、難しいことはわからなくても、自然とともに愛深く、神を畏れて生きている、原住民と呼ばれているアフリカの方がたがおられます。
外宇宙から移住して来ると、まずそのような未開の地と呼ばれるところに、地球での日常生活に慣れさせるために、そういう地にまず送るのです。

そして、地球人として第一歩、まず何を学ぶかというと、けっして物質文明が豊かではなく、学校教育もそれほど、本などもたくさんはないけれども、何をいちばん初歩で学ぶか、魂が学ぶかというと、それは自然という中における神というものと一体となり、神を賛美し、神に感謝し、ご飯を食べていけるということ、そういうことを、神に感謝し、祭りを行い、信仰深くまず生きるということ、そこをまず最初に学ばされるのです。
そこあってこそ、徐々に物質文明、そして、小学校、中学校、高校、大学という、高学歴の高度な近代社会の中に、順番に生まれ変わっていくのです。

いいですか、基本はそこなのです。
目に見えぬ神に対して、圧倒的な信頼と感謝と畏れというものをもって生きる。
それが信仰の原点であるということです。
ここが善悪でいう善と悪のいちばん大事なところなのです。
神とともに生きて、畏れて、神とともに信仰深く生きる。
これこそが善そのものであります。
その後は物質文明の中におかされながら、悪というものが徐々に徐々に忍び寄ってくる。

でも原点はまず、神とともに生きるという信仰心であるということ。
まず外の生命体、宇宙から来た者たちは、そこを地球人として、原点として学ばされるのです。
そういうプロセスがあるのです。

近代国家に生まれ、学歴も、そして物質文明の豊かさの中で生きているあなたたちは、もうそこのプロセスは終わったものとみなされ、より複雑な難解な修行の中に、試されていくのです。

でもいちばん大切なことは、神とともに生きるということ。
神の真意を自らの真意とし、善とし、神に忠誠を誓い、おのが人生を光り輝かすべき、そして精一杯生きた姿を父なる母なる大地を通して、神を認めて賛美し、神に認めていただけるという、そこにおいて自らの喜びとしていくという、そのような信仰態度を、それこそが神の子としての絶対的なる善の価値に伴う、そのような神の子として誇り高い生き方であると、そのように唱い上げて生きていけというのが、地球としての根本的な神理の流れなのです。

その意味において、中東の者たちはぶれているところも多いかもしれない。
でも、日本のこの冷たい、寒々しい、信仰心失われた姿を見ていると、どちらかのほうがいいとかというと、間違って傷つけ合った愚かさを持っているかもしれないが、確かにいま戦争の坩堝と化しているかもしれないけれども、彼らが神を求める姿は、まるで幼子が母親の姿を見失ったかのように、神よ神よと母親を追い求めるかのように、恋い慕いながら神を追い求めているではないか。
神のためであるならば、死ぬことも誇りをもって、喜びをもって死んでいくではないか。

その判断において間違っていることがあるかもしれないが、でも、心から神を恋い慕い呼び続ける、その幼子のような、神を愛する姿を私は上から見ていると、いとおしく、いとおしく、いとおしく、これこそが信仰の原点であると、現代のこの日本の姿をみている、私のような立場にあるものには目に映ってしょうがないのです。

9.地上とは行動を通して信仰心を表明する場所

けっしてORが地上に降りていくとき、熱意がなかったとか、神に対する畏れがなかったとか、そんなことは少しもなかったのです。
彼も大きな夢を持ち、大きな希望と仕事に対する誇りと情熱を持って、地上に生まれていったのです。

あなた方一人ひとりもみなそうではないですか。
でも人というのは、魂の根本が、器があっても、やはり環境の中で左右されることは大きい。
まして幼い頃に身につけなければいけない価値観、信仰心の姿というもの、それが一生を左右する。

目に見えないものであり、目に見えない神を信じていくという姿を、恥じるような日本という風土があるからこそ、知という新たな神のような基準を求め、知性というものだけで善悪を判断していくような、誤った、偏った社会ができ上がってしまうのではないだろうか。

人の価値を学歴、偏差値だけで区分けし、そして眼に見えない神は、眼に見える物質社会の中において、今の過度期的な物理化学論においては証明されないから、これは神はいないのである、いない神を信じるのは愚かなのであるという、知に偏った善悪論で、多くの人びとは道徳という価値観、人間としての根本方針を決めつけているのではないだろうか。
知という毒により、多くの日本人が心の中まで毒されているのです。

これは今回のORが子どもの頃から、ずれていったその過程であるかのように、私は思うのです。
そして、彼自体が知の代弁者であったということ。

知性というものを通して、彼が法を説かんとしたことが、すべてが裏目に出て、愛の人といわれたイエスのような、愛豊かな信仰心というものが、もし彼の中に魂の中にしっかりと根づいていたならば、愛と知というものが合体し、見事にエル・カンタラーの法として、この地上に説かれたことだと思う。
それだけできる器であったということ。
それを思うと返す返す、わたしは残念でならないのです。

彼を救出できるかどうか。
それは彼自身が最後、これから彼が残された時間に中で、彼がどのように反省し、それを行動に移せるかということにかかっているのです。

理解したからといって、いつもあなた方が指導霊から言われている、日蓮たちから言われていることであろう、思いを持ったとしても、行動の中で、その時代に反省して、行動の中で活きてこなければ、何も思わなかったのと、反省しなかったのと同じことになってしまうということ。
それが信仰者のあり方だということです。

いいですか。
思いを持っても、どんなに申し訳なかったと思っても、これから彼が残された時間の中で、どれだけマイナスエナジーの中においても、最後、どう彼が振る舞えるか、実行できるか。
それを私たちは援助しながら見守りたいと思います。

あなた方もレムリアにおいて、神のメッセージをこれだけたくさん聴いているわけですが、現実生活の中において何をなしえたのか、今世の名前において何かできたのか、その行動力、実行した仕事の結果によってのみ、あなた方はその信仰心を試されているということなのです。

心の中でいくら「神を愛していた」、「神のほうに集いたいと思っていた」、「神のお役に立ちたいと思っていた」と言っても、実際問題、神に招かれた時に、何もできずに怖気づいて逃げ出しているような者たちは、ほんとうの意味でわかってはいなかったのです。
「高橋が大好きでした」、「イエスや仏陀の教えも勉強しました」と言っても、何もしなかったではないかという、その結果に終わってしまうということなのです。

地上というものは、実行し、体験し、生き様そのものを通して、信仰し、生き方を表明する場所であるのです。

思いだけでいいのであるならば、神に対する信仰心は、思いだけでいいのであるならば、そのような三次元という空間はいらないのです。
実行あってこそ、この三次元に仏国土、ユートピアというものが実現されていくのです。

10.神の計画のために命を賭して頑張っていただきたい

だからこそ皆さん、心から厚き信仰心を持ち、神に対して熱いラブコールがあるならば、この地上に残されている機会に、仕事をしなさい。

一人ひとりの個性を通して、神の子としてつくられたおのが使命の中で、おのが個性の中におき、この地上に、大いなる大計画の中における自分たちの役割を通して仕事をするのです。

そして、神の御心の中にある仏国土、ユートピアの建設に力を貸し、神の国を打ち建てる。
そのような成果をしっかり業績として残して、この地上を去っていらっしゃい。

我々の世界から見たら、何千年、何万年と出ない者たちもいるのです。
その者から見たら、この地上に出て行った、たかだか数十年というものは、ほんの瞬間なのです。

その間に、この地上三次元において、何をなすことができたか。
何を思ったかではない。何をなすことができたか。

思いは即行動として、実行として、命がけの行動として、神への厚い信仰心を表明できた時、あなた方は真の神の使徒であり、信仰者として、神よりたたえられることであろう。

そうでなければ、単に心の中で思っていて、単に「神様、神様」と言っても、イエスもおっしゃられたであろう、私の名を「イエスよ」と呼ばれても、私は最後のとき、私の隣人を助けなかった者たちに対して、私は「あなた方を知らない」と言うであろう。
私たちのことを、神のことを、我々信仰の対象となっている、我々の世界の者たちを、もし慕ってくれるのであるならば、アラーでもそうです、ヤハウェでもそうです。
すべての神々に対して信仰心があるというのであるならば、あなた方は、汝らの隣人を助けなさい。

神仏の意思を汲んで、この地上に仏国土、ユートピアというものを建設しなさい。
その命がけの行為、命がけの仕事を実行するということにおいてのみ、あなた方の善とされ、あなた方の善我なる神の子としての本心に同通し、神の子としての誇りある姿を輝かすことができる。

それを神は何よりも望まれていられるということなのです。
それが信仰者として命がけで生きるということなのです。
それ以外に、善なる神にたたえられる、神の子として評価される基準など、何ひとつないのだということ。
そのことを世の修行者たちは、深く心に留めておいてほしいのです。

悟り悟りと、自我我力の中で、自分さえ悟れば他の者たちなど蹴落としてもいいと思いながらやっている仏教の、仏教徒の人たちの心根を見ると、私は心から悲しくなるのです。

我々中東の人たちは自分を捨てて、神の意思をこの地上に反映させるために命を捨てます。
自分の悟りのために、人を蹴落として、神の真意など、この地上に表明されるわけなどないのだ。
自分自身で悟り、知であたかも偉くなり、周りを見下したような思いになり、霊道そのものまでが、自分のステータスシンボルのように、身に着けたいのであるならば、そのような悟りは、地獄ヘー直線につながる悟りとなるであろう。

己を捨て、己がほめられること、神よりたたえられることなのであると、そのように心から神を慕い、神の仕事に打ち込む姿、自分自身を捨てていく姿、その姿こそが信仰の原点であるのだということ。

そこがあってからこそ、次の段階で、知という的確な判断力というものを養う意味で、法というものをしっかり学ぶという、広―い、高―い、法を学ぶという、そういう時期にきていたということがわからなくてはなりません。

物事には順番があるということです。
第一段階、第二段階の階段を昇らずして、十段階、百段階の階段を昇れぬということ。
それはOR自らの人生をもって証明してしまったということ。
そのことを深く、我々はともに、人類もともに学ばなければいけないのだと思う。

我々の世界から出た仲間です。
あなた方に言われなくても、私たちの深い悲しみが、彼をいたわる気持ちがどれだけ深いものか。
私たちはいつまでも彼を待ち続けるでしょう。

そして彼がもう一度戻ってきた時、ともに今回の計画の反省をし、次にどのようにしていったらいいのかと、しっかり方法論として学び合いたいと思っています。

残された時を、今地上に散らばりし、光の天使、使徒の諸君、どうか、残された命、命を張り、神に命を預け、きらめきのごとく、激しく燃焼し、残された数十年、神の計画のために、命を賭して、頑張っていただきたいと思います。

11.未来の地球を愛の星とするために

私は長いこと、この者を通して通信することを待っておりました。
あなた方はかつて私かゾロアスターとして出た、マニとして出てきたときの、教えのことを、探しておられたようですが、私とて、そんなはるか数千年前に出て、形骸化し、おかしな内容になってしまったことを、今さら説くとは思わないでほしいのです。

天上界にいて、常に日進月歩で起きる、天上界の計画をともに遂行しながら、我々も、時代の波に乗り、新たな認識の中で、新たな自分たちの個性のプリズムを通して、新たな教えを練り続けているということなのです。
あなた方の視点と変わらない、現代感覚においては変わらないということ。

ただその地域、その育ってきた、その価値観の根本において、あなた方とは多少違うところがあるかもしれないけれども、私から今さら、拝火教のことをとやかく言ってみたところで、あなた方にとっては何のメリットもないということはよく知っているのです。

だから私はこれから、過去の反省も含め、現在、我々が何をなすべきなのか、神の計画が何をなすべきなのか、そしてこれから先、未来の地球をどのように愛の星として、神の星として、生かしめるために、どのようにしていったらいいものなのか、そのことを語りたいと思います。そのように語っていくために、私たちはいるのです。

過去世の、もう形骸化し、もう中身のなくなってしまった過去の宗教を語るために、私たちが出てきているのではないということ。
それは仏陀においても同じであったということです。
でも、語りたくても語れずして終わった。
その無念さ、悲しさ、その心情は推察して余りあるものであるということです。

難しいですね、日本語はたいへん難しいです。
なかなか日本語を使いこなせず、お聞き苦しい点があったと思いますけど、だんだん上手になると思います。
私のこともあまり関係のない神であると思いにならず、これからも何かあればお聞きください。

今中東はたいへん難しい状況にあります。
これは、これからの世界の動きの中心になっているところなのです。
これをどのように解決していくのか。
彼らの思いをどのようにもっていくのか。
それが、我々の力の見せどころであるということもわかっているのです。

しかし、心の中にたまってしまった積年のものというものは、やはり一度吐き出させ、ぶつけ合い、そして高い次元に昇華させていくしかないのだと思っています。

では長くなりましたが、今日はここにて失礼させていただきます。
わたしの日本語が拙いためにわたしの真意が伝わらなかったとしたならば、お許しをいただきたいと思います。
また次の時にわからなかったことがあれば、どうかお尋ねください。
では失礼いたします。

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